2007/01
長崎通詞たちの活躍君川 治 19


長崎のオランダ語通訳は「オランダ通詞」、中国語通訳は「唐通事」である。唐通事は通訳業だけでなく貿易事業も許されていたが、オランダ通詞には許されていなかったので、医者や翻訳など知的業務を主としていた。
 蘭学事始で長崎通詞たちはあまり評価されていなかった。しかし杉田玄白の蘭学の師・西玄哲(1681−1760)は幕府侍医で、玄哲の伯父・玄甫は長崎のオランダ通詞である。玄甫は江戸に出て幕府の侍医となった蘭方医、その父・西吉兵衛は南蛮通詞で西流外科の祖と言われている人である。
 長崎オランダ通詞は世襲制で、西家の外には楢林家、吉雄家、本木家、志筑家などが知られているが、みな通詞を通じてオランダ医学を修得して医家を開業している。
 楢林鎮山(1648-1711)は楢林家初代の大通詞であり、「紅夷外科宗伝」を著した楢林流外科の祖といわれた優れた外科医であった。吉雄耕牛(1724-1800)は吉雄家第5代通詞で、吉雄流紅毛外科医であり江戸詰め通詞も勤めていた。彼は前野良沢の師匠である。
 このように長崎通詞はオランダ商館を通じて海外の知識を吸収していると同時に、医学の知識も習得している人が多かった。
 ところで「解体新書」に「蘭書翻訳は解体新書が始めて」と書かれた誤りは、次の事例を見ればわかる。
 本木家初代の大通詞・本木良意(1628-1697)は商館医のケンペルやライネに医学を学び、独レムメリンの解剖書のオランダ語訳本を翻訳した。自らは出版しておらず、その原稿を見つけた鈴木宗伝が1772年に「和蘭全躯内外分合図」と題して出版した。杉田玄白の解体新書より2年前であり、翻訳は70年以上前である。
 本木家第3代通詞の本木良永(1735-1794)はコペルニクスの地動説を最初に紹介した人である。翻訳した本は「阿蘭陀地球図説」「太陽窮理了解説」「天地二球用法」などがある。
 人体解剖については、京都の山脇東洋(1705−1762)が刑死者の解剖を観察したのが1754年であり、杉田玄白の腑分けより17年前である。更に山脇東洋の観察記録「臓志」を著したのは1759年で、解体新書より15年前である。
 以上のように蘭学事始の疑問点を述べたが、杉田玄白の功績を否定しているのではない。本木良意の翻訳した解剖書や山脇東洋の臓志なども後世の人たちが評価したのであって、その当時は弟子たち仲間内に留めようとしていたようだ。
 これに対して玄白は「オランダ医学」の素晴らしさを積極的にPRしようと活動した。その結果、蘭書の翻訳は医学書に留まらず、物理・化学・天文学から地理・軍事に至るまで多くの分野に広がるようになった。
 長崎オランダ商館長や付属医官は毎年江戸参府をしており、長崎通詞と江戸の蘭学者たちは密接な情報交換をすることができた。長崎オランダ通詞たちの活躍が日本の近代科学の土壌を作り上げたと言えよう。


筆者プロフィール
君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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